思考と欲望の狭間

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レポートもどき

大学のゼミで現在やってるレポートもどきをここに書いてみる。

 

 僕のゼミは、前期は元NHK記者である担当教授が雑誌に寄稿している連載を元に、各グループがその内容を追加資料を加えながらまとめて発表するという形で行っていた。そして後期はその中の連載の中からテーマを一つ選び、元記事の内容から自分なりに論を発展させ、一人一人発表し、最後は論文に書くというものだった。テーマは原爆原発問題、731部隊や米軍基地問題など、どれも占領期の日本に端を発する問題を扱ったものばかりで、メディアを勉強したくて大学に来たゼミの人々は、見るからにやる気がなかった。無理もない。僕も同様だったが、たまたま連載の中に、「キリスト教と戦争とマッカーサー」というものがあったので、それを元にし、日本のカトリック教会が日中戦争から太平洋戦争までの所謂「戦中」に行ってきた信者への戦争協力への扇動について研究テーマを設定した。それは僕自身がカトリック教徒であり、この記事の中で記された事実に大きな衝撃を受け、この問題こそこれからの日本のカトリック教会、ひいては全ての宗教団体が認識、そして解決していかなくてはならないという危機感を一人の信者として覚えたためだ。特にナザレのイエス新約聖書の中で説いた「隣人愛」を実行し、所謂「平和の象徴」として戦争反対と世界平和を訴えてきたカトリック教会が、それとは全く正反対の行動であると思われる信者への戦争協力の扇動を行ってきたこと、そしてその事実を私自身や周囲の信者が誰も知らなかったことに大きな衝撃を覚えた。そしてここまで大きな問題について私自身が今まで全く知らなかったことを反省し、今回このテーマを設定した所存だ。記事内では日本のキリスト教会の戦争協力から、戦後のマッカーサーによる日本のキリスト教国化、そして皇室とキリスト教との関係など、戦中から戦後まで広い期間の様々な事柄に触れているが、今回は教会の戦中の戦争協力に絞って見ていく。

 

 記事内では教会が軍部に弾圧されたこと、そして上智大学の事件を転換点として戦争協力を行っていったことについて触れられている。前述の通りそれは一般的な教会へのイメージとは全く異なったものであり、私はその真偽を確かめたく、戦中に発刊されていたカトリック教会の雑誌「聲」を閲覧するためにイエズス会の聖三木図書館を訪れた。そこで「聲」の戦中から戦後までの数年間分を閲覧したが、非常に信じ難い内容であった。戦中においては、「されば我等信者は國民として國のため財産を捧げ血までも捧げること寧ろ其の本来の悦びとするところである」「誠心誠意を以て政府と協力し、あらゆる精神的貢献を致さんと欲するものである」など、信者に対して戦争協力を呼びかけている。しかも、ナザレのイエスが自ら十字架刑に処されて犠牲になったことで、人類全体の罪を贖ったとする「原罪と贖罪」の理念を、国家への献身と同意義として扱っている。その内容は戦争が佳境に向かっていくにつれて激しくなり、太平洋戦争が始まってからは米国人に対する批判さえもしている。其の様相たるは、一宗教団体の刊行物というより、政府のプロパガンダ雑誌としか思えない。現在カトリック新聞を代表する各刊行物が、各教会・家庭のどこにでもあることを考えれば、その影響力は大きかったことは間違いない。

 

 しかし戦争が終わった次の年からは内容が一変する。戦中に教会自身が行ってきたことをすっかり忘れたように「民主主義」の文字が並び、終戦直後の日本人の精神的貧困を嘆いている。その後教会が行ってきた戦争協力について長年触れられることはなく、1986年の第四回アジア司教協議会連盟総会でアジアの人々への謝罪を公式に初めて表明。また1995年にカトリック司教団から出された「平和メッセージ」では、

「日本のカトリック教会が、そこに隠されていた非人間的、非福音的な流れに気がつかず、尊いいのちを守るために神のみ心にそって果たさなければならない預言者的な役割についての適切な認識に欠けていたことも 、認めなければなりません。」

と教会が日本の戦争行為に対して何の行動も起こさなかったことを認め、これらをカトリック教会の代表であるカトリック司教団の総意の謝罪としている。しかし直接的に信者へ戦争協力を扇動したことについては全く触れておらず、あくまでも「自分たち教会が何もしなかったこと」についての謝罪である。

 

 ではそもそも何故「隣人愛」を説くカトリック教会が、日本の戦争行為と国家への忠誠を容認できたのだろうか。キリスト教の最も根源的な掟である律法、つまりモーセの十戒の第五の掟では「汝、人を殺すなかれ」と記され、カトリック教会の教義をまとめたものである公教要理では、その十戒の第五の掟を拡大解釈して、戦争を禁止している。しかしカトリック教会は全ての武力行為を禁止しているわけではない。同じく公教要理では軍事力による正当防衛が行使できる条件が記されており、

1.国あるいは諸国家に及ぼす攻撃者側の破壊行為が持続的なものであり、しかも重大 で、明確なものであること

2.他の全ての手段を使っても攻撃を終わらせることが不可能であるか効果をもたらさないということが明白なこと

3.成功すると信じられるだけの十分な諸条件が揃っていること

4.武器を使用しても、除去しようとする害よりも更に重大な害や混乱が生じないこと

とかなり厳格であるが、この条件を満たす場合は武力行為を行える。では戦中の日本の行為はどうだったか。東京教区大司教である岡田武夫は、「信教の自由と政教分離」においてこう述べている。

  「戦前戦中のカトリック教会の指導者は、日本でも教皇庁でも「大東亜戦争」が侵略戦争であるという明白な認識をもっていなかったと思われます。もし侵略戦争という認識を持っていたとすれば、「殺してはならない」という第五戒をするようにと教えたことでしょう。正当な戦争には第五戒は適用されない、そしてこの「大東亜戦争」は正戦でありかつ聖戦である、と考えられていたのです。」

 これに拠れば、当時の教会は日本の行為を侵略戦争と認識しておらず、前述の公教要理における「軍事力による正当防衛」にあたるとし、容認していたことになる。日本の戦争行為が侵略戦争であったか否かについては、僕の研究が足りておらず、それを記そうとすればこの文と本旨と異なってしまうため、ここで論ずるべきことではない。しかしカトリック教会がそれを侵略戦争であったと認識し、自身の見解が本来あるべき姿と異なっていたことを認めている以上、教会に責任はあると言える。また神を信仰しながら、国家への忠誠を誓うことは矛盾しているように思えるが、これも公教要理では、「倫理的秩序のために必要になる権威は神に由来されるもの」と定められ、権力者つまり当時の日本での天皇への忠誠は神への忠誠と対立しないとしたので、これを容認できた。

 

 ここまで日本のカトリック教会が戦中にどのようにして戦争協力を行い、それについての戦中と戦後の見解の違い、そして戦中の教会自らの「静観の姿勢」に対する謝罪を見てきた。ではそれらの経緯を踏まえた上で、現代の日本のカトリック教会は戦争と平和に対してどのような姿勢を見せているだろうか。

 

 1967年、教皇 パウロ六世の呼びかけにより、ヴァチカンに「正義と平和委員会」が設立され、全世界の司教協議会にたいしても同じ趣旨の委員会を設けるようにという要請が出され、1970年に日本でも「正義と平和司教委員会」が発足され、世界、特にアジアにおける社会正義と平和の実現のための活動を現在まで行っている。その活動は刊行されている雑誌や公式サイトから見ることができるが、その内容は「死刑廃止」「原発廃止」「沖縄米軍基地移設反対」「安全保障関連法案と改憲反対」など、現在進行系で激しい論争が行われている政治問題についての声明発表や抗議運動が大きく目立ち、正義と平和司教委員会もそれを優先的な課題としている。ここで宗教団体が政治に直接的でなくても関与することに違和感を覚えるかもしれない。確かに、日本政府と国家神道の結びつきとGHQによる解体、そして戦後の宗教団体を母体とする政党の出現とそれに対する良いとはいえないイメージから、政治と宗教が結びつくことに対して嫌悪感を抱く風潮が日本にはある。しかしキリスト教の思想が根底にある欧米ではそうではなく、アメリカの政界ではプロテスタントが強い力を持っており、そもそもイスラーム世界では政治と宗教を区別する概念が無い。カトリックの公教要理でも、教会は特定の政治的立場に立つことはなく、組織としては政治に直接介入しないという姿勢ながらも、「人間の基本的権利や霊魂の救いが要求する時には、政治的秩序に関する事柄についても倫理的判断を下すこと」は教会の使命とし、これを根拠にしてカトリック教会は日本政府に対して声明発表や抗議運動を行っている。確かに教会としては自身の使命を果たすために特定の政治的立場に立たざるを得ないのかもしれないが、これらの問題は、教会内外どちらにおいても反対派ばかりではなく賛成派もいるように、単純な正義と悪で片付けられる問題ではなく、もっと慎重に扱われるべきものである。

 

またその発信方法も適切であるとは言い難い。現状声明発表や抗議活動を行っていても、それが国会の場や、テレビや新聞などの大手メディアに取り上げられることはなく、実際に私が基礎演習の中でこのことについて議論しようとしたが、知っている者はいなかった。それどころかカトリック信者でも知らない者がいる可能性もある。自身の主張を繰り返しても、それが届かなければ全く意味をなさない。この多種多様な情報で溢れている現代社会で、知られていないことは存在していないことと同意義である。主張することは重要だが、まずはそれが教会外の社会に認知してもらうための適切な方法を考えていくべきではないだろうか。

 

確かに、これらの現在のカトリック教会の活動は、隣人愛を説く教会の姿としても、また戦中の教会自身の行動に対する反省としても然るべきものではある。しかしその姿勢の底には、根本的な問題である「多くの人間を操作するだけの強大な力」を教会自身が所有しているという自覚は見えず、また活動に際して自身が戦中に行ってきた行為について触れられることがなく、反省をしているというよりは汚点を隠そうとしているように見受けられる。今後平和を訴えていく活動を行っていく上で、教会が戦中に行った行為に対しての責任は外すことができないものであり、それを繰り返さないためにも、たとえそれが戦時中の特殊な状況で、従わざるを得なかったとしても、曖昧な表現ではなく、自身が戦争協力を行ったことを明確に謝罪し、その事実を風化させないためにも信者全体に認知させ、自身が「多くの人を操作できる強大な力」を所有していることを自覚していくべきだ。

 

少ない資料と知識でなんとかこねくり回したものだから、正直穴が多いことは承知の上だ。その上で(まああるとは思わないが)そっちの方面で詳しい人が見てくれたなら指摘して欲しい。