思考と欲望の狭間

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「スポットライト 世紀のスクープ」を観て ジャーナリズムと教会のあるべき姿

 元々テーマが非常に興味深く、また大学の課題の映画鑑賞レポートの対象でもあったので、上映回数と小さいシアターでの上映ということで一抹の不安を抱きつつも、久しぶりに映画館に赴き、「スポットライト 世紀のスクープ」を鑑賞した。

以下、公式サイトの紹介文から

 

2002年1月、アメリカ東部の新聞「ボストン・グローブ」の一面に全米を震撼させる記事が掲載された。地元ボストンの数十人もの神父による児童への性的虐待を、カトリック教会が組織ぐるみで隠蔽してきた衝撃のスキャンダル。1,000人以上が被害を受けたとされるその許されざる罪は、なぜ長年にわたって黙殺されてきたのか。この世界中を驚かせた"世紀のスクープ"の内幕を取材に当たった新聞記者の目線で克明に描き、アカデミー賞部門(作品賞/監督賞/助演男優賞/助演女優賞/脚本賞/編集賞)にノミネートされるなど、名実ともに全米で絶賛を博す社会派ドラマ、それが『スポットライト 世紀のスクープ』である。 

 

 はっきり言ってこの映画はとても単調だ。山も谷もなく、どんでん返しがあるわけでもない。このあらすじなら、「陰謀渦巻く教会からの度重なる妨害にも屈せずに戦い続けた記者たち」みたいなストーリーも演出できそうであるが、それもない。回想シーンもなく、複数の視点切り替えがあるわけでもなく、ただ記者たちが真実を求めて地道な作業を行っていく姿を記者側の視点だけで淡々と描いている。なるほど、これではいくらアカデミー賞を二部門(しかも最高名誉である作品賞)で受賞したとしても、一日一回上映で小さいシアターに追いやられるわけだ。万人受けは絶対にしない。

 

 しかし映画をしっかり観ると、なぜこの作品が高評価なのかが分かる。前述のとおり記者たちの姿を淡々と描いているのだが、これが非常に細かく描かれている。地道な文献調査や関係者の取材を続け、問題解決のために少しづつ外堀を埋めていく。その過程で妨害を受けたり、取材対象を傷つけたりすることになってしまうが、「スポットライト」のチームたちは、被害者のために尽力する。途中、記事の速報性を優先しようとして、チームの1人であるマイクがデスクのウォルターに抗議するシーンがあるが、ウォルターは冷静に諌め、教会というシステムの問題の全貌が明らかになるまでは記事を出さないことを告げる。おそらくこの部分は速報性が「命」である新聞においては大きな決断であると思うが、ウォルターは問題の根本的解決を優先したのだ。そこに彼が持つ「ジャーナリズムのあり方」が見える。おそらくそれがジャーナリズムのあるべき姿の1つなのであろうと思う。この映画はそれを気づかせてくれる。


 このような作品を観るとどうしても「それに対して今のマスゴミは~」という感想に陥りがちである(実際にそのような感想をネットでちらほら見た)。しかしマスコミを批判する前に自分たちの姿を見つめ直すべきなのではないか。いくらマスコミによる報道が酷くても、それが行われるのはそれを求めている人がいるという現実があるからだ。私達情報の受け手側の意識が変われば、完全ではないにしても情報の発信側もやり方を変えざるをえないだろう。

 

 また「報道」はもはや他人事ではない。今やSNSスマートフォンの発達で誰もが発信者になる。事実、SNSを発端とした事象がテレビや新聞に取り上げられるということも少なくない。SNSやブログを友人たちのコミュニケーションツールとして使用するだけなら、この作品で描かれた記者たちの姿勢を参考にする必要はないかもしれないが、それらを自らの主張を発信したり、問題提起をしたりするツールとして使うつもりがある人は、是非参考にするべきだと思う。人々はどのような情報を求めているか。またどのように発信したら情報の受け手に伝わり、問題が解決に進むのか。


 この映画にはもう1つ大きなテーマがある。そしてそれもアカデミー賞を受賞した大きな要因になったと思う。それは「教会というシステムの問題」そのものについてだ。しかし、ネットで他人の感想を見てみても、言及しているのは私が前述したような「記者たちの姿」だ。この映画のもう一つの肝、「教会というシステムの問題点」について言及している人は少ないように感じる。これは仕方がないことでありながら非常に惜しい部分でもある。欧米では教会というシステムが一般社会の中に組み込まれており、個人の思想や日々の生活のどこかに「教会」の姿が見え隠れする。しかし教会そのものが身近なものではなく、ある意味教会というシステムと一般社会が切り離されている日本では、この映画で提起されている「教会というシステムの問題点」が差し迫ったものにはならないのだ。

 作中では「事件すらもみ消せる教会の権力」が描かれているが、それは直接教会が妨害してくるわけではない。事実、作中には教会側の視点がほとんど描かれていない。教会が問題をもみ消すことができる一番の理由は、被害者も周囲の人々も、教会が信仰や生活の基盤となっており、それを壊したくないという切実な思いがあるからだ。教会とは厄介なもので、カトリックは物心つく前に入信させる幼児洗礼が主流で、小さい時から教会で過ごして育ってきた人がほとんどだ。そして人間関係やアイデンティティまでもが教会を基礎として成り立っており、神と信者との仲立ちの役割を果たす神父の存在は、個人の中で自然と大きくなる。つまり信者が神父を公の場で非難し、教会というシステムに荒波を立てることは、自身のアイデンティティと「居場所」を揺るがすことに繋がってしまうのだ。だから被害者本人も積極的に非難する事を躊躇い、周囲の人々もそれを諌めようとし、問題を内輪で抑えようとするのだ。これはあまりにも卑劣だ。仮にも隣人愛と神の愛を説くカトリック教会がやってはいけないことである。宗教とは人のためにあるものであり、人を傷つけることがあっては一切ならない。


 カトリック教会は、聖ペトロが中心となって成立した初代教会から約2000年も存続し続け、その間にシステムは肥大化し、多くの問題を抱えることになった。そしてその問題を解決しようとマルティン・ルター宗教改革を起こし、教会側も第二バチカン公会議等で時代に則した「新しい教会」を打ち立ててきた。しかしそれにもかかわらず、このような事件が起こってしまったことは1人の信者として遺憾だ。この事件が報道されてからは、前教皇ベネディクト16世も積極的に問題解決に乗り出したり、この映画がバチカンで特別公開されるなど、カトリック教会側も大きな問題意識を持っていることが伺える。このような事件が再発しないことを強く望みたい。


 私たちのように宗教に属するものは、信仰を強く持ち、教義を理解し、信者として何を重視するべきなのかを常に考え、「宗教は人のためのものであり、人を傷つけてはならない」ことを常に忘れてはならない。