思考と欲望の狭間

Twitterじゃできないような頭の整理や日常のことを

お弁当が食べたい

 今日は1限を終え、早々と大学を後にした。毎週木曜日の午後一時から伊勢佐木モールで行われる無料の寄席を観に行くためと、神奈総に少し用事があったからだ。特に私はこの無料寄席を観るために木曜日を1限だけにしたと言っても過言ではない。大学を出たのは午前十一時。関内駅に着いたのはちょうど正午の頃だった。寄席が始まるまで一時間ほどあり、また空腹感を覚えていたので、この暇にお弁当を食べてしまおうと考えた。

 

 私の家では基本的に毎日昼食は母が作ってくれるお弁当を食べる。ありがたいことだ。ボリュームも申し分ない。朝は忙しいので冷凍食品のおかずが多いが、私はそれも好きであったし、毎日楽しみだった。

 

 しかしあることに気づいた。お弁当を食べる場所がないのだ。

 

 座るところは幾らでもあった。しかしお弁当を食べるのに適した場所は一つもなかった。何故だろうか。お弁当なんて座ることができるなら膝の上にお弁当箱を載せていくらでも食べることができる。しかしそれができない。よくわからない抵抗感がある。そのためにお弁当を食べることができなかった。しかし寄席が始まるまでにまだ時間がある。伊勢佐木モールとなればあちらこちらから美味しそうな香りが鼻を刺す。鰻屋から漂う香り。ポンパドールのパンの香り。蕎麦屋の出汁の香り。結局私は空腹感に負け、時間を潰すためにも仕方なくマクドナルドに入店し、チーズバーガーとコーヒーを頼んだ。サンキューアメリカ。サンキュードナルド。

 

 結局寄席が終わった後に学校でお弁当は食べたのだが、あの抵抗感は何だったのだろうか。それは路上に座り込んでパンやおにぎりを食べる際に生じる恥の意識に近いものだ。しかしパンやおにぎりはベンチに座って食べている人をよく見かける。ではお弁当はどうであろうか。私は街中のベンチで一人でお弁当を広げている人を未だ見たことがない。

 

 以前たまたま自分だけが休日だった時に、いつものように渡された弁当を散歩がてら外の公園で食べようとしようとした時があった。しかし母親に止められた。

「日中外で一人でお弁当なんか食べていたら不審者として通報されるから止めなさい」

また以前友人の母親からこう言われたこともある。

「大学でお弁当なんて食べてたらイジメられるんじゃない?」

まさに世はお弁当迫害が起きているのだろうか。お弁当ジェノサイド。

私は両者の言葉を聞いた時に鼻で笑った。大げさであると。確かにもしかしたら両者の意見は世間一般とずれているかもしれない。しかし両者の言葉に通ずるのは「お弁当を食べることを恥としている」ことであり、これは私が今日感じた抵抗感に関連しているのではないかと考えた。

 

 しかしお弁当を食べることは今でも当たり前のことである。大学でもお弁当を食べている人は見受けられ、スタディサプリによる調査では、持参したお弁当を食べる大学生は21.8%だ。会社でも昼休みにお弁当を食べることは当たり前のようである。ではどこに恥が生じる原因はあるのだろうか。その答えを出す手助けとなるのは、今でも時々話題になる「便所飯」ではないだろうか。

 

 「便所飯」。それはトイレの個室の中でひっそりとご飯を食べる行為である。何故そのようなことをするのかというと、一人でご飯を食べる行為を周囲に見られたくないからだそうだ。実際「お弁当 一人」で検索すると、お弁当を一人で食べることの悩みを綴ったページがヒットする。中にはこのようにお弁当を一人で食べても恥ずかしくないようにする方法が記されたページもある。まあさすがにこれはネタ色が強いが。

 

 

 どうもお弁当に限らず、公共の場で一人で食事をすることへの何かしらの負のイメージが有るようだ。しかしこれは飲食店の中で食事するときは例外のようで、それ以外の場、特に学校や職場でこの負のイメージが強くなる。何を食べているかは問題ではない。”外で一人で食べていることが問題なのだ”。母の言葉を借りれば、外で一人で食事をすると通報案件にもなりうる程である。世知辛い世の中だ。

 

 しかし街中のベンチでパンやおにぎりを食べることに抵抗感はないのに、何故お弁当ではそれが生じたのだろうか。これは憶測だが、おにぎりやパンにはファストフードとしてのイメージが有る一方、お弁当には学校や職場や公園で、友人や家族や同僚と和気あいあいと食べる強いイメージがあるからではないだろうか。そしてそのイメージをメディアや周囲の人々から私が引き継ぎ、このような抵抗感が生じることになったのではないだろうか。さらにそれが私固有のものでないからこそ、街中のベンチでお弁当を一人で広げる人を見受けられないのではないだろうか。

 

 長々と書いてきたが、私個人としてはやはりどこでもお弁当を食べたいものである。お弁当にはコンビニで買うパンやおにぎりとは違った魅力がある。そしてなによりもそこには作ってくれた人の愛情がある。しかしこの「ぼっち飯迫害」を止める術がない現状、やはり一番の解決策はいつでも一緒にご飯を食べてくれる友人を見つけるべきことだろう。私が今一番やるべきことは、履修を組むことでも、サークルに入ることでも、勉強に励むことでもなく、「食友」を見つけることなのだ。「孤独のグルメごっこ」を学生食堂で行っていた日々に別れを告げ、多くの友人とともに華やかな酒池肉林を開く時なのだ。

 

私の戦いは今、始まった。