思考と欲望の狭間

Twitterじゃできないような頭の整理や日常のことを

はたして大学とは

 大学に入って1週間以上が経った。新しい環境で未だに慣れきっていないが、どうにか落ち着きそうだ。相変わらずぼっち食堂だが。

 

 以前、私は大学に希望を持っていなかった。元々大学というのは「学問に努める場所」であって、偏差値が高い大学に行く人はそれ相応の志があると思っていたのだ。高い志があるからこそ辛い受験勉強を乗り越えられる、のだと。しかし、受験勉強を続ける意味を見失い、その答えを求めていた私に突きつけられたのは、多くの受験生が"なんとなく"大学へ行くという答えだった(中には本当に志が高い人もいる。その方には申し訳ない)。そこに情熱とか志とかいうものはなく、ただ大学へ行くこととそのための受験勉強が当たり前になり、そのムーブメントに乗った者の中で要領が良い者が偏差値の高い大学へ。そうでない者がそれ以外の大学へ行くという現実だった。

 それに気づいた時から私は大学が馬鹿らしくなった。結局のところ受験勉強をしても、人生について考えていない。生きる上で何が大切かを考えていない。だったらある程度のレベルさえあれば、どの大学へ行っても同じじゃないだろうか。そう思ったので、自分が勉強できる環境が整っていて、ある程度知名度があるそこそこの大学へ行くことにした。逃げだと言われても仕方がない。1番を目指していないのだから。しかし私にはもうどうでも良かった。ただ自分が勉強できさえすれば良かったからだ。だから受験勉強はほどほどにして、かけがえのない友人たちとの思い出を作る方を優先した。

 今は大学に実際に入学し、生の大学生と触れ合い、その中にも良識ある人がいることに気づいたことで、"大学生"を一様に見下すこともなくなり、当たり前のように日常を楽しんでいる。しかしそれでも疑問を抱かざるをえないこともある。特に如何に大学生活を楽に過ごせるかを考えている人々だ。この大学四年間を中学や高校のように過ごすつもりなのだろうか。バブルの頃とは違い、手を出して待っていれば誰かが何かを与えてくれるわけじゃない。競争相手だって多い。なのになぜ武器を持つ準備をしないのだろうか。

 社会ーーーさらに大きく捉えれば世界ーーーに属して生きていく以上、私たちはそれに何かを貢献しなければならない。それは「自分は世界に対して何ができ、そして世界は自分に何を与えてくれるのか」という二者間の契約みたいなものだ。社会に出るにはまずそれを第一に考えなければいけない。しかしそれを不明瞭にしたまま社会に出ようとするから、就職の時にテンプレ通りの、取り繕った対応しかできないのではないだろうか。

 

先日の講義で教授陣が私たちに説教に近い言葉を放った。「遊んでばかりいる奴らを社会は求めていない。勉強をしろ。そのために私たちが全力でサポートする。君たちの負担は増えるだろうが、それは私たちも同じだ。しかし私たちはそれを厭わないだけの熱意がある。」彼ら教授陣も、自身が勤める大学がどのような評判か分かった上で言ったのだろう。だからこそ感動した。私は彼らはさらにレベルが高い大学よりも高品質な教育を提供する自信と熱意を持っているのだと確信したのだ。彼らに従う学生は多くないだろうし、この大学のレベルが上がるわけでもないだろう。しかし私は彼らの熱意に従ってみようと思う。そして自身が社会に貢献でき得る武器を見つけるつもりだ。