思考と欲望の狭間

Twitterじゃできないような頭の整理や日常のことを

「宗教社会学のすすめ」を読んで

 この本は私が受験直前に息抜きとして図書館で借りたのだが、受験が終わってからは2/3ほど読んだ後ずっと放置していて、最近図書館から催促状が来てしまったので慌てて読みなおした。

 以下、本書の紹介文から

宗教にあまり接したことがない人は、宗教の問題はそう複雑ではないと思うかもしれない。しかし、その歴史や実態について知れば知るほど、その奥行きは深く、また混沌としてくる。それは人間生活のほとんどあらゆる側面に関わりをもっているとさえ言えるのである。宗教と呼ばれる現象が生み出している、まさにカオス的状況に絶えずなんらかの秩序ないし説明可能な現象を読み取ろうとする「宗教社会学」―情報時代に求められる宗教への新しいアプローチ。

  紹介文の通り、本書はこれから宗教社会学を修めようとする者への入門書となっており、まず宗教に対する一般的なイメージや偏見について述べ、誤りを修正した後、世界各地の宗教が歴史的にどのような展開したかに触れ、ウェーバーやデュケルムなどの過去の社会学者が提唱した理論を用いながら社会の中で宗教が果たしてきた役割を説明した後、まとめとして実際に宗教社会学として各宗教を調査するときにどのような方法を用いいればよいのかを解説してくれている。

  あくまでも入門書としての位置づけなので、途中までは宗教社会学について軽く触れるのみで、あまり深くは述べておらず、宗教社会学に親しみを持ちやすいように書かれている。正直、今まで宗教関係の本を読んできた人にはあまりにも既知な内容で面白みには欠けるかもしれない。しかし本書の肝は最後の章に記されている実際に宗教を調査する方法であると思う。宗教の種類や状況に合わせた調査方法、調査する際の注意点や心構え、そしてこれから宗教社会学への学びをより深めていくための書籍が多く記されている。

 その中でも特に私がはっとさせられたのは、「宗教調査とは、調査するものとされるものの世界観の対決である」という箇所だ。宗教に関する事柄、特に個人の進行に関することはあまりにもデリケートなもので、質問する際にも最善の注意を払わなければならない。そしてその質問そのものも、質問する側の宗教観やその宗教に対する評価によって変わってくるので、自ずと相手から得られる調査結果も大きく変わってくることになる。

 私の大学での研究テーマは、「メディアを使って日本社会へ宗教の現状を認知してもらい、日本人特有の宗教アレルギーを軽減する」ことであり、大学での研究、また将来カトリック司祭になった後の研究過程でも、自身が所属するカトリックのみならず、他の様々な宗教を調査することは避けて通れない。その中で、私がカトリックであることに嫌悪感や警戒感を抱く人もいるだろう。中には調査すらさせてもらえない可能性もある。調査を円滑に進め、より良い研究結果を得るためにも、本格的な調査を始める前に、各宗教に対しの理解を徹底的に深め、知識をつけていくことが大前提である。

 また本文に

宗教調査は、自分の宗教観ないし世界観の再構成へと道が通じている。研究者がインフォーマントに出会って、「無傷」で帰還する、つまり自らの宗教観、世界観に何らかの変化も生じなかったとなると、むしろその調査は、それほど意義深いものではなかったとさえ言いうる。

  とあるように、調査を行っていくことで研究ためのみならず、自己の宗教観を広げることができ、カトリックの司祭としてより良い宗教活動(教会での信者への教育など)を行っていくことができるだろう。

 本書はこれから宗教学を学んでいこうとする私に大きな心構えを教えてくれた。これからも大学でのメディアの研究と平行して、さらに宗教への学びを進めていく所存だ。

 

宗教社会学のすすめ (丸善ライブラリー)

宗教社会学のすすめ (丸善ライブラリー)

 

 

 

お弁当が食べたい

 今日は1限を終え、早々と大学を後にした。毎週木曜日の午後一時から伊勢佐木モールで行われる無料の寄席を観に行くためと、神奈総に少し用事があったからだ。特に私はこの無料寄席を観るために木曜日を1限だけにしたと言っても過言ではない。大学を出たのは午前十一時。関内駅に着いたのはちょうど正午の頃だった。寄席が始まるまで一時間ほどあり、また空腹感を覚えていたので、この暇にお弁当を食べてしまおうと考えた。

 

 私の家では基本的に毎日昼食は母が作ってくれるお弁当を食べる。ありがたいことだ。ボリュームも申し分ない。朝は忙しいので冷凍食品のおかずが多いが、私はそれも好きであったし、毎日楽しみだった。

 

 しかしあることに気づいた。お弁当を食べる場所がないのだ。

 

 座るところは幾らでもあった。しかしお弁当を食べるのに適した場所は一つもなかった。何故だろうか。お弁当なんて座ることができるなら膝の上にお弁当箱を載せていくらでも食べることができる。しかしそれができない。よくわからない抵抗感がある。そのためにお弁当を食べることができなかった。しかし寄席が始まるまでにまだ時間がある。伊勢佐木モールとなればあちらこちらから美味しそうな香りが鼻を刺す。鰻屋から漂う香り。ポンパドールのパンの香り。蕎麦屋の出汁の香り。結局私は空腹感に負け、時間を潰すためにも仕方なくマクドナルドに入店し、チーズバーガーとコーヒーを頼んだ。サンキューアメリカ。サンキュードナルド。

 

 結局寄席が終わった後に学校でお弁当は食べたのだが、あの抵抗感は何だったのだろうか。それは路上に座り込んでパンやおにぎりを食べる際に生じる恥の意識に近いものだ。しかしパンやおにぎりはベンチに座って食べている人をよく見かける。ではお弁当はどうであろうか。私は街中のベンチで一人でお弁当を広げている人を未だ見たことがない。

 

 以前たまたま自分だけが休日だった時に、いつものように渡された弁当を散歩がてら外の公園で食べようとしようとした時があった。しかし母親に止められた。

「日中外で一人でお弁当なんか食べていたら不審者として通報されるから止めなさい」

また以前友人の母親からこう言われたこともある。

「大学でお弁当なんて食べてたらイジメられるんじゃない?」

まさに世はお弁当迫害が起きているのだろうか。お弁当ジェノサイド。

私は両者の言葉を聞いた時に鼻で笑った。大げさであると。確かにもしかしたら両者の意見は世間一般とずれているかもしれない。しかし両者の言葉に通ずるのは「お弁当を食べることを恥としている」ことであり、これは私が今日感じた抵抗感に関連しているのではないかと考えた。

 

 しかしお弁当を食べることは今でも当たり前のことである。大学でもお弁当を食べている人は見受けられ、スタディサプリによる調査では、持参したお弁当を食べる大学生は21.8%だ。会社でも昼休みにお弁当を食べることは当たり前のようである。ではどこに恥が生じる原因はあるのだろうか。その答えを出す手助けとなるのは、今でも時々話題になる「便所飯」ではないだろうか。

 

 「便所飯」。それはトイレの個室の中でひっそりとご飯を食べる行為である。何故そのようなことをするのかというと、一人でご飯を食べる行為を周囲に見られたくないからだそうだ。実際「お弁当 一人」で検索すると、お弁当を一人で食べることの悩みを綴ったページがヒットする。中にはこのようにお弁当を一人で食べても恥ずかしくないようにする方法が記されたページもある。まあさすがにこれはネタ色が強いが。

 

 

 どうもお弁当に限らず、公共の場で一人で食事をすることへの何かしらの負のイメージが有るようだ。しかしこれは飲食店の中で食事するときは例外のようで、それ以外の場、特に学校や職場でこの負のイメージが強くなる。何を食べているかは問題ではない。”外で一人で食べていることが問題なのだ”。母の言葉を借りれば、外で一人で食事をすると通報案件にもなりうる程である。世知辛い世の中だ。

 

 しかし街中のベンチでパンやおにぎりを食べることに抵抗感はないのに、何故お弁当ではそれが生じたのだろうか。これは憶測だが、おにぎりやパンにはファストフードとしてのイメージが有る一方、お弁当には学校や職場や公園で、友人や家族や同僚と和気あいあいと食べる強いイメージがあるからではないだろうか。そしてそのイメージをメディアや周囲の人々から私が引き継ぎ、このような抵抗感が生じることになったのではないだろうか。さらにそれが私固有のものでないからこそ、街中のベンチでお弁当を一人で広げる人を見受けられないのではないだろうか。

 

 長々と書いてきたが、私個人としてはやはりどこでもお弁当を食べたいものである。お弁当にはコンビニで買うパンやおにぎりとは違った魅力がある。そしてなによりもそこには作ってくれた人の愛情がある。しかしこの「ぼっち飯迫害」を止める術がない現状、やはり一番の解決策はいつでも一緒にご飯を食べてくれる友人を見つけるべきことだろう。私が今一番やるべきことは、履修を組むことでも、サークルに入ることでも、勉強に励むことでもなく、「食友」を見つけることなのだ。「孤独のグルメごっこ」を学生食堂で行っていた日々に別れを告げ、多くの友人とともに華やかな酒池肉林を開く時なのだ。

 

私の戦いは今、始まった。

 

 

 

 

 

はたして大学とは

 大学に入って1週間以上が経った。新しい環境で未だに慣れきっていないが、どうにか落ち着きそうだ。相変わらずぼっち食堂だが。

 

 以前、私は大学に希望を持っていなかった。元々大学というのは「学問に努める場所」であって、偏差値が高い大学に行く人はそれ相応の志があると思っていたのだ。高い志があるからこそ辛い受験勉強を乗り越えられる、のだと。しかし、受験勉強を続ける意味を見失い、その答えを求めていた私に突きつけられたのは、多くの受験生が"なんとなく"大学へ行くという答えだった(中には本当に志が高い人もいる。その方には申し訳ない)。そこに情熱とか志とかいうものはなく、ただ大学へ行くこととそのための受験勉強が当たり前になり、そのムーブメントに乗った者の中で要領が良い者が偏差値の高い大学へ。そうでない者がそれ以外の大学へ行くという現実だった。

 それに気づいた時から私は大学が馬鹿らしくなった。結局のところ受験勉強をしても、人生について考えていない。生きる上で何が大切かを考えていない。だったらある程度のレベルさえあれば、どの大学へ行っても同じじゃないだろうか。そう思ったので、自分が勉強できる環境が整っていて、ある程度知名度があるそこそこの大学へ行くことにした。逃げだと言われても仕方がない。1番を目指していないのだから。しかし私にはもうどうでも良かった。ただ自分が勉強できさえすれば良かったからだ。だから受験勉強はほどほどにして、かけがえのない友人たちとの思い出を作る方を優先した。

 今は大学に実際に入学し、生の大学生と触れ合い、その中にも良識ある人がいることに気づいたことで、"大学生"を一様に見下すこともなくなり、当たり前のように日常を楽しんでいる。しかしそれでも疑問を抱かざるをえないこともある。特に如何に大学生活を楽に過ごせるかを考えている人々だ。この大学四年間を中学や高校のように過ごすつもりなのだろうか。バブルの頃とは違い、手を出して待っていれば誰かが何かを与えてくれるわけじゃない。競争相手だって多い。なのになぜ武器を持つ準備をしないのだろうか。

 社会ーーーさらに大きく捉えれば世界ーーーに属して生きていく以上、私たちはそれに何かを貢献しなければならない。それは「自分は世界に対して何ができ、そして世界は自分に何を与えてくれるのか」という二者間の契約みたいなものだ。社会に出るにはまずそれを第一に考えなければいけない。しかしそれを不明瞭にしたまま社会に出ようとするから、就職の時にテンプレ通りの、取り繕った対応しかできないのではないだろうか。

 

先日の講義で教授陣が私たちに説教に近い言葉を放った。「遊んでばかりいる奴らを社会は求めていない。勉強をしろ。そのために私たちが全力でサポートする。君たちの負担は増えるだろうが、それは私たちも同じだ。しかし私たちはそれを厭わないだけの熱意がある。」彼ら教授陣も、自身が勤める大学がどのような評判か分かった上で言ったのだろう。だからこそ感動した。私は彼らはさらにレベルが高い大学よりも高品質な教育を提供する自信と熱意を持っているのだと確信したのだ。彼らに従う学生は多くないだろうし、この大学のレベルが上がるわけでもないだろう。しかし私は彼らの熱意に従ってみようと思う。そして自身が社会に貢献でき得る武器を見つけるつもりだ。