思考と欲望の狭間

Twitterじゃできないような頭の整理や日常のことを

「何者にもなれない恐怖」を超えて

いつからか「何者かになりたい」という思いを漠然と抱いていた。もしかしたら思春期特有かもしれない。

 

「自分がいつか輝ける場所」を探して、あれでもないこれでもないと数々の場所を渡り歩き、拾っては捨ててを繰り返してきた

 

そして周りと自分を比較し、自分の才能の無さに呆れ、傷ついていた。どうせ何者にもなれなくて無駄に長生きするくらいなら、さっさと死んでしまいたいと思っていた

 

「何者かになりたい」という思いはいつしか強迫観念になっていた。毎晩寝る前になると様々な思いが浮かぶ

 

「今日一日、一体お前は何を成し遂げたんだ?」「何も成し遂げられないならさっさと死ねよ」

 

自分の言葉に自分で傷ついていた。まるで自傷行為。ずっとそれを繰り返していた


夏休み、ゼミの研修旅行である地方に行って、その地域特有の問題に関わっている人たちを取材して回った。研究発表のために真面目に聞いていこう。最初はそれだけだった。でも話を聞いていくとそれどころではなくなった

 

彼ら一人一人のかっこよさに心を打たれてしまった。真剣に考え、悩む彼らの姿を見て、「やべぇ、うわぁ、やべぇ」という思いが止まらなくなった

 

説明されなかったらどこにでもいる普通の人としか思えない人たちだった。彼らは「何かを成し遂げる」なんて考えてなくて、「自分にできること」を考えて、それを一つ一つこなしているだけだった

 

「ああ、これが正しい生き方なんだな」

深い実感が心に染み渡った

 

彼らは有名人じゃなかった。フォロワーが大勢いるわけでもなかった。誰もが憧れる仕事をしているわけでもなかった。存在もその人の思いも、直接会うまではハッキリ分からなかった

 

でも彼らは確実に「何者か」だった。キラキラしてなくても、泥臭くても、輝いていた

 

確かに社会で生きていくためには何かしらの能力とかスキルは必要だし、そのためには学びも止めちゃいけないんだけど、その根幹の「生きる力」は「物事に真剣に向き合うこと」、つまり「どれだけ多くのことを自分と地続きで考えられるか」なんだなって、やっと気づいた。「何者か」になるためには、才能よりも思いが大切なんだなって気づいた

 

僕たちは当たり前のように線を引く。「男だから、女だから」「理系だから、文系だから」「ウェイだから、陰キャだから」なんて色々と。何が怖いかって、それを意識せずに、無意識にやっちゃうこと。だからどれだけ意識していても確実に何かと線を引いてしまう。人間の行うあらゆる判断は恣意的にならざるを得ない。それが人間の原罪。だからこそ「一つでも多くのことを自分と地続きで考えられるか」って重要なことなんだなって思う

 

だからたとえどんな仕事をしても、どんな状況になっても、「目の前のことに真剣に向き合うこと」だけは絶対に忘れないでおこう。たとえそれが社会問題みたいな大きなことじゃなくても、仕事のこととか、友達のこととか、家族のこととか、「自分には関係ないから」と思わず、一つ一つ真剣に向き合おう。そして焦らずに一個一個でいいから少しずつ学んでいこう


そうしたらいつか「何者か」になれるはずだから

グッバイ・ママ

昨夜、母親と喧嘩をした。最初は些細なことだったけど、いつの間にか今まで溜まっていたものが全て出てきた。

 

心の中で見下していることも、どれだけ歪められたのかも、一度も心を開いたことがないことも、お前のような親には絶対にならないってことも。

 

喧嘩というより半分くらい絶縁だった。本当に絶縁はしてないけど、心の中ではハッキリと母親との繋がりが切れたことを感じた。

 

虐待なんかされてない、いたって普通の家族。確かに母子家庭で収入も少なかったけど、あまり不自由はしなかったし、大学にも行かせてもらえた。

 

それだけでも感謝するべきだけど、自分が悩んだ時、辛かった時、いつも自分と向き合ってもらえないという感覚が僕の傷として、憎しみとして残っていた。

 

自分の親を憎みたくなかった。見下したくなかった。知ってるもん、親なりに愛してくれてるって。子どものことを考えてくれてるって。悪意なんてない。それはただの行き違い。

 

だから言わないでおこうと思った。言ったって何かが変わるわけじゃない。傷が癒えるわけじゃない。お互いに辛い時期だったし、まあ仕方なかったんだなって、高校生の頃までは勝手に納得していた。

 

でも成長して、一人の大人として親と向き合って話すようになると段々変わってきた。親がしたり顔で「どう子どもと向き合うべきか」とか「家族のあり方」とかを語るのを聞いていると、胸の奥にしまっていた憎しみが沸々と湧き上がってくるんですよ。

 

「じゃあお前は俺に何をしたんだ?」

 

その思いは止まらなくなって、これはもう時間の限界だなって感じた。もう幸せな親子に戻れないかもしれない。もしかしたら死んでしまうかもしれない。そんな思いがブレーキをかけていたけど、親を「親」としてではなくて「一人の大人」として見れば見るほど、憎しみは高まっていった。

 

僕がひとしきり言ったあと、母は泣きそうなのか怒っているのか分からない顔で言った。

 

「私が全部悪かったんだね。一生かけて償わないといけないんだね」

 

「そりゃそうでしょ」

 

冷たい言葉が出た。でも違和感は無かった。

 

もう多分元には戻れないなって。幸せな親子にはなれないなって。どちらとも悪意は無かったし、単なる行き違いが原因だった。誰も悪くなかった。だからこそ哀しかった。でももうしかたない。この哀しさを受け入れていくしかない。もう僕は大人になってしまったから。

 

当然だけど、どんな親のもとに生まれるかなんて、もう運です。ガチャでしかない。他の家族に羨望の眼差しを向けても、ありえたかもしれない「IF」なんて考えても、今の僕は変えられない。誰も幸せにならないんですよ。

 

親の負の遺産を自分たちの子どもに引き継がない。それだけですよ、僕ら子どもができることって。

「何者にもなれない恐怖」 凡人の凡人らしい悩み

かなり青臭い文を書きます

 

 

 

 毎晩、寝る前になると「”何者”にもなれない恐怖」が襲ってくる。「自分は唯一無二の存在になれないんじゃないか?」という恐怖が、「今日一日、お前は何ができたんだ?」とセットで襲ってくる。

 

 まあ多分みんな多かれ少なかれ同じようなことは思ったことあるだろうし、「別に何者にもなれなくても楽しい人生が送れたらいいんじゃない?」って言われるだろうけど、僕にとっては生きるか死ぬかの問題になる。

 

 欲しいものを全てを手に入れてしまい、人生に満足してしまった僕は、あまり生きることに執着心が無い。むしろ何の夢も目標も無くだらだらと見苦しく生きていくならさっさと死んだほうがマシだとさえ思っている。だから「何となく生きる」という選択肢が残されていないし、「今ここで綺麗に人生を終わらせる」か「唯一無二の存在である”何者か”になる」の二択しか残されていない。今死なずに済んでいるのは、「いつか”何者”かになれる」という淡い希望を捨てきれてないからだと思う。

 

 生きる意味を見つけるために、人生に満足してしまった瞬間から”何者”かになるための自分に一番向いていることを探し始めた。その手始めに「自分が一番になれる趣味」を探し始めた。まあ一番って言うと勝ち負けの話みたいだけど、ここでは「自分にしかできないことがある」ってぐらいに思って欲しい。

 

 だから興味が湧いたものは全部手を出した。演劇、音楽、写真、映像、落語。どれも始めたうちはとても楽しい。しかしやっている内に全身全霊で熱中できてない自分に気づく。そして段々と「これは俺が本当にやりたいこと、向いていることじゃないんだろうか?」という思いが膨らんでいく。そして嫌になってやめてしまい、次の「自分に向いているかもしれないもの」を探し始める。それを繰り返して「自分には何もできないのか?」という思いだけが積もっていく。そんな感じでここ数年間はだらだらと過ごしてきた。まあおかげで中途半端に色んな分野の知識は付いたし、楽しくはあった。

 

 けど一年後には就活が迫っている。そろそろ自分の人生の方針をちゃんと考えなければいけない。趣味で何か秀でたものがあったら、仕事を続けながら創作活動などをして”何者”かになれる可能性はある。しかし現状それが全く無い僕は、”何者”かになれるかどうかは就職に直結してしまう。だから自分にしかできない”天職”を見つける必要が出てきた。

 

 「天職なんてほとんどの人は見つけられないまま生きていくよ」と多くの人は言うだろうけど、じゃあ後に待っているのはやりたくもない仕事を何となく定年まで続け、その間に何となく余暇を過ごし、何となく死んでいく人生なのか?そんな人生に興味はない。もう十分やった。それをやるなら今ここで幸せな気持ちで死んでいったほうが良い。

 

 もう僕にはほとんどの人が描くような「仕事を適度にこなしながら空いた時間を趣味や好きなことに費やす」という人生は送れない。「自分にしかできない仕事に就く」か「何百万円もの奨学金と共にさっさと死ぬ」のどちらかをあと一年ちょっとで選ばなければいけない。

 

 演劇も音楽も写真も映像も落語も自分の武器にできなかった僕は、趣味を仕事や生きがいに直結させようとするのではなく、「自分にしかできない、他人や社会のためになる仕事に就く」という考えにシフトし、その最後の抵抗として大好きな勉強を少しずつやっている。本を読めば読むほど知識はついていくし、自分が成長を止めてないことを実感できる。勉強ならいつか誰かのためになると信じてやっていける。まあそれでもほとんどの人は勉強したことを活かせないまま生きていくんだけど、そうならないよう信じて毎晩「”何者”にもなれない恐怖」に怯えながら続けていくしかない。生きていくためには。

記号消費って

ブログの方針を転換して早々、イキリちらした長文を書きます。恥ずかしいね。


以前講義の試験問題で「記号消費はまだ行われているか」というものがあった

記号消費ってのはボードリヤールって人が提唱した「商品はその形や機能性よりも、それに付随したブランドやイメージ等の記号の価値で判断されるようになった」ってものなんだけど、まあ僕は肯定的に書いた。僕だってカフェやレストランに入る時はどれだけオシャレな内装か気にするし(味は第一だけどね)、同じ人は少なくないと思う。

でも問題は、記号消費そのものは変わらなくても、「求められる記号」が変わってきたんじゃないかなってこと

記号消費が提唱された当時に考えられてた記号ってのは、もっぱら「おしゃれ」とか「かっこいい」みたいな感情を起因にするイメージと、高級ブランドや老舗の「歴史の長さに裏打ちされた信頼」だったと思う。そして確かにそれは今でも変わってない。インスタ映えするものは売れるし、なんだかんだヴィトンやシャネルは今でもみんなの憧れだ。

でもその色んな記号の中で最近比重を増してきているのが「今の生産者の姿勢」じゃないかな。オシャレさもブランドも大事だけど、「作っている人が何を考えているか」ってのがすごく重要になってきてる気が何となくする。「商品そのもの」のイメージじゃなくて、「生産者そのもの」のイメージが。

どんだけ良いもの作ってても、作ってる企業がブラックで社員が自殺しているから買わない、とか。逆に別にめちゃくちゃすごいものじゃなくても、仲が良い友達が作ってるから買っちゃう、みたいな。

なんというか、生産者と消費者の心理的な距離が近くなった気がする。その要因は分析してないからハッキリ分からないけど、インタラクティブなコミュニケーションができるインターネット(意識高そうな文面だ)が登場したのが一つだと思う。だから消費者を物を売りつける相手じゃなくて、末永く付き合っていく知り合いみたいな感じで考えることが大事なんじゃないかな。

でその「生産者の姿勢」ってのを消費者はどこで読み取るのかって話だけど、まあ色々あるんだろうけど、やっぱり一番大きいのは広告じゃないかな。企業としての姿勢をメッセージとして一番上手く伝えられる。今年のバレンタインデーで話題になったゴディバの広告が良い例じゃないかな。

www.huffingtonpost.jp


本当に理想的な広告って感じ。すごくかっこいい。僕はチョコは詳しくし彼女いないから買ったことないけど、もしあげるとしたら多分ゴディバ買っちゃうと思う。

「広告はラブレターと同じで、好きな人に思いを届けるためにラブレターの文面と、どこで、どのタイミングで渡すかを一生懸命考える必要がある」ってゼミの課題図書に書いてあったけど、まさにそんな感じだなって思う。

逆に本当にクソみたいな広告だったらもうそれだけで商品も嫌われちゃうんだよね。あれだよ。あのスクロールしたら付いてくるあのウザい広告。あれなんてもうどうやったら思いつくんだってくらいに最悪な広告だよね。もう広告そのものがウザいし、どんなに面白そうなゲームでも、あの広告に載ってる時点でダウンロードする気失せるね。「ああ、こういうことしちゃうんだな」って一気に冷める。

まあ要するに生産者の姿勢ってのが重要視されてきているから、ちゃんと誠実な広告を作ったほうが良いよね〜って話なんだけど、あの付いてくるウザい広告とか、最近流行りのいきなりLINEグループに招待されて変なブランド物を宣伝されるあれとか、「とりあえず見せときゃいいだろ」って広告まだいっぱいあるんだよね。マジでさ、少しは広告勉強してくれ。絶対売る気無いだろ。そこらへんの本齧ればすぐ分かるんだからさ。いつまでやってんだ。マジで、ウザい広告みんな死んでくれ。

書き残すこと

今まで極たまに更新してきたこのブログだけど、これからは自分の思考を垂れ流す勢いで書いていきたいと思います。きっかけ?まあ何となくちゃんとアウトプットしたいと思ったからです。

別にこのブログ書いたって誰かが見てくれるわけじゃないし、有名ブロガーになれるわけでもない。でもね、やっぱり自分の思考を書き残すのって大事だと思ったんですよ。特に自分のために。

まあ自分の思考を垂れ流しにするのって恥ずかしいし、批判されたら怖いから、結局今までは裏垢(って言ってもフォロワー100人超えてるけど)にだらだら書いてきたんだよね。でもこれからはちゃんとまとめます。

ハイスペック養豚場 理想的な公共圏としての神奈総

 この記事は神奈総を養豚場、そしてその生徒を豚として比喩して、生徒たちのマナーの悪さやモラルの無さを批判したものだ。まだ読んでない人は読んでみよう。

 

wanwanichika.hatenablog.com

 

 でもこの記事の中で挙げられている批判って、僕が在校していた時から散々提起されてきたものだし、新規性は無い。あと養豚場と豚って表現は痛快でもないし、読んだ人を無意味に不快にさせてしまうし、比喩表現としても適切じゃないから風刺としては駄目だね。僕だったらアウシュヴィッツユダヤ人にする。

 

 

 

 

さあ今の僕の表現でこの記事がネットの海の藻屑となるのも時間の問題になりました。今これを読めているあなたはとてもラッキーです。ポリコレ棒を握った民衆が僕をゴルゴダの丘に連れて行く前に、読者のみなさんは全力でこの記事を読んでください。

 

 

 

 

 閑話休題、まあ表現が悪かったかもしれないけど、批判の内容は同意できる。確かに酷いところもあるもんね。言っても全然聞かないし。でもよく考えてほしい。ここに挙げられているエレベーターやゴミの分別の問題や、授業の「空け」って神奈総だけの問題なのかな?他の高校だって同じような問題を抱えているし、大学なんてもうモラルという概念が無いのかってぐらい酷いよ。大学生にもなって中央線の中に自転車投げ込む人いると思う?それがいるんですよ、僕の大学には。おお法政、我が母校。

 


【法政大学】法政大学校歌

 

 

 だからわざわざ批判するな、って話じゃない。むしろ僕は好意的だ。まあ記事の内容というよりも「こういう記事を書くこと」そのものを賞賛しているんだけどね。こういう学校全体の問題を提起すること自体が素晴らしいことだし、これこそが神奈総の魅力だ。

 

 そう、僕はこういう他の生徒を批判する記事を書いても封殺されない風潮、つまり「誰もが同じレベルで自由に主張できる風潮」こそが神奈総の一番の魅力だと思っている。「えっ?そこ?授業の多さとか行事じゃないの?」って思う人もいるのは分かるけど、これはもっと根源的なものだ。他の高校とも大学にも無い、神奈総だけの素晴らしさだ。

 

じゃあ他の高校や大学と何が違うのか見ていこう。

 

 

他の高校

 さっきも言ったけど、他の高校でも同じような問題はゴロゴロ転がっている。じゃあそれをどうしているかっていうと、先生たちがトップダウンで管理しているから、学校の問題は「先生が解決すること」なんだ。だから生徒側から問題提起されることなんて少ないし、そもそも話し合いの場すら与えてくれない。悪いことしたら先生に叱られるか、職員室行って反省文を書く。それが普通の高校。

 しかも普通の高校じゃスクールカーストがある。そこでは声が大きいカースト上位者の主張がまかり通って、カースト下位者の声なんて誰も聞いてくれない。もしそこでカースト上位者以外が誰かの行動を声高に批判したら「空気を乱した」ってことでハブられちゃうかもしれない。怖いね。

 

 

大学

 じゃあ大学はどうなってるのか。大学はスクールカーストなんて無いし、学生の自主性に任されているところが大きいけど、母集団が多すぎてそもそもどんな人がどこにいるか分からないし、誰が何言っても気づかれない。そして規模が大きすぎる分接触が少ない。接触が少ないということは衝突も少ない。だから誰かがモラルの低いことをしても他の人は「知らんがな」とか「めんどくさ」で終わり。あとは事務の人たちが片付けてくれる。まあさすがに中央線に自転車を投げ込むのはやばいけど。

 

 これに関しては社会も同じ。社会は大きすぎるから誰がどこにいるか分からないし、そもそも何が問題なのか分からない。そこで出てくるのがメディアで、メディアの大きな役割は「今世の中ではこれが問題になってるんですよ!」ってみんなに知らせるアジェンダ設定機能だ。でも社会は大抵金や権力を持っている奴の主張がまかり通るよね。これはスクールカーストと同じ。

 

 

じゃあ神奈総では?

 じゃあ神奈総が他の高校や大学と違うのはどこだろう。神奈総はクラス制の撤廃と部活や団体の加入・脱退が楽な風潮のお陰で仲が良い奴だけで集まれる。面倒くさかったら他のところに行けばいい。だからスクールカーストが無くなって、あらゆる個人や集団の関係がフラット化しているんだ。だから「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」が優先されるから、声の大きい奴の発言だけがまかり通るってことはない。確かに校内で有名な人の発言の影響力は大きいけど、それはただ広がりやすいってだけで誰かの主張を封殺するものじゃない。まあ舞台系団体はホルスタに絶対服従を強いられているなんて噂もあるけど、噂だよあれは。そうであってほしい。そうですよね?

 

 まあここまでは大学と同じだ。じゃあ大学と何が違うのかっていうと、学校の規模だ。さっき大学は規模が大きすぎて誰がどこにいるか分からないって言ったけど、神奈総はちょうど良い具合に狭い。確かにみんな好き勝手にまとまって動いているけど、まとまったそれぞれの集団がちょうど良い具合に接触するから、交流が生まれて、誰がどこにいてどんなことを言ってるのかが分かりやすい。だからこそ問題意識が生まれる。この部活にはこの人がいるってみんなも何となく分かるんじゃないかな?

 

 そしてもう一つ違うことは、Twitterの存在だ。ちゃんと比較してないから確実なことは言えないけど、神奈総生はTwitterを利用している人が多く、タイムラインを開くと大抵誰かいて、そこでは「神奈総TL」という独特なものが形成されている。この「神奈総TL」が各個人や集団の間の潤滑油として上手く機能していて、各々の主張を可視化しているんだ。これはまさにさっき言ったメディアのアジェンダ設定機能なんじゃないかな?今までにも学校全体の問題をTwitter上で議論するということは度々見られたけど(炎上に近い時もあったけど)、これはアジェンダ設定機能が上手く動いたうえでそれぞれの関係がフラット化しているからこそ起きることなんだろうと思う。

 

 

まとめ

 今まで見てきたように、スクールカーストみたいに「階層化」しても力の強いやつが勝っちゃうからちゃんとした議論はできないし、かと言って大学みたいにそれぞれが勝手に仲良しだけで集まって「島宇宙化」すると、衝突は少なくなっても接触が減ってしまって議論はできない。

 

 そう、神奈総はそれぞれを良いとこ取りした学校で、「大きな組織の中で個人の考えをみんなが同じレベルで話し合える数少ない場所」なんだ。

 

 そもそもこういう話し合いの場(≒公共圏)ってのは「あらゆる人々が権力とか経済力とか何の制約もなく同じレベルで各々の主張ができる」ことが理想だって知り合いの社会学者のハーバーマスおじさん(昔はよく飴をくれた)が言ってた気がするけど、つまりある意味では神奈総の中に限っては「理想的な公共圏」とも言えるのかもしれないんだ。

 

 だからこそみんなには今回取り上げたブログ記事のように、もっと問題提起して議論してほしい。他にももっと問題はあるし、何よりもこんなことができるのは神奈総しかないかもしれないから、もっと楽しんでほしい。

 

だから問題は多くても、ただそれだけで神奈総を嫌いにならないでほしい。問題の多さを上回るほどそれをみんなで話し合う環境がここにはあるから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなこと長ったらしく書くならテーマ研究にすれば面白かったのにね。

 

 

エピソードなんとか 現実の逆襲

「夢を持って頑張ろう」

 とても良い言葉だ。耳触りが良い。いつでも聞いていたいし、わくわくするし、事実僕らは小さい頃に大人たちからこの言葉をスパムメールのように送りつけられる。とってもハッピーだ。(余談だけどスパムは美味しい)
僕も色んな夢を持ったものだ。最初に持った将来の夢は今でもハッキリ覚えている。スターウォーズに出てくるジェダイの騎士だ。スクリーンの中でライトセーバーを駆使して悪と戦うオビ=ワン・ケノービの姿が、幼い僕の心に夢というフォースを覚醒させてくれた。

 しかし成長するに連れていって、僕たちは「現実」を否が応でも押し付けられる。
「夢を持て」と言っていた大人たちも、「現実を見ろ」と言うようになり、次第に「安定した職業に就くために良い大学に行け」と言うようになる。それが当たり前だと教えられた僕たちは、よく分からないまま進路を決め、よく分からないまま勉強し、よく分からないまま進学し、一方安定していないと言われる職業(声優やスポーツ選手など)を目指す人々を「夢見るガキたち」として嘲笑うようになる。
否定されるのは一部の職業に就くことだけじゃない。人生を楽しく、幸せに生きたい。当たり前のように思えるそれだけのことを、「甘ったれるな」とか「みんな苦しんでいるからお前も苦しめ」とか言われて否定されて、苦痛な現実を押し付けられるし、それが当たり前のように思い始める。

 僕も例外ではなかった。オビ=ワン・ケノービによってフォースに目覚めた僕の心は、「現実」という暗黒面に堕ちていった。

 でもおかしいと思わないか。夢っていうのは現実の上に存在するはずだし、夢があるからこそ人間は努力して成長するんじゃないのか。なんでそもそも現実=苦痛という式が成り立つんだ。なんでそれが当たり前だと思われてるんだ。

 みんなが言う「現実」って何なんだ?自分がやりたいことを諦めることか?辛い辛いって言いながらやりたくもない仕事を続けることなのか?
辛いだけならさっさと死んだほうが楽じゃないか?

 「現実」は苦痛なのが当たり前とした上で、それを再生産し続けていくならば、僕たちの世界は世代を経るごとに酷くなっていく一方じゃないか。VHSを何度も上書きしてすり減っていくように。すり減り続ければいつかは壊れる。そうしたらもう僕たちはヴァーチャルの世界に逃げ込んで幸せを得るしかないじゃないか。それならもういっそのことこんな世界捨ててしまったほうがいいじゃないか。

 そもそもみんなが目指している「安定」なんて存在しないんじゃないか。今はもう死にかかってる東芝SHARPの人たちだって、10年前は自分たちは「安定」の中にいると思ってたんじゃないのか。リーマンショックみたいなことが起きないとも限らないし、あと50年も経たずに必ず来るとされているシンギュラリティと、それによる産業革命レベルの社会変化の前では、もう全てが変わってしまって、今の常識なんてこれっぽっちも通用しなくなるんじゃないのか。

 だったら、存在するかどうかもわからない「安定」を目指すための攻略チャート、つまりとにかく勉強して良い大学に行けば安心みたいなことを教え込むんじゃなくて、本当に自分がやりたいことを見極めて、それを実現するために一体何が必要で、どういうリスクがあって、何をすればいいのかっていう「戦略的」に夢を目指すことを教えるべきじゃないか?考える時間も与えないで、躓いたら「お前が悪いんだ」って自己責任を押し付けるのはそれこそ無責任じゃないか?

 確かに夢を追うことはリスクがある。でも僕は自分が選んだ選択によって起きた結果は全て受け入れる覚悟があるし、たとえ目指していた夢を実現できなかったとしても、それを経験にできるし、すぐほかの路線に変更することもできるから、夢が実現できなかった=人生の失敗とは思ってない。むしろ親や社会に強制された選択をしたならば、僕はそいつらをずっと恨むだろう。「こんなはずじゃなかった。あいつらのせいだ」と。僕はみんながそういう考えを持てば世の中は絶対もっと面白くなると思う。もし誰も夢を目指さなくなったら、社会は必ず死ぬ。

 現時点で僕も夢を失っている。もちろんフィクションだと知っているからジェダイの騎士になろうとは思っていない。でも幼いころに純粋に夢を持っていた気持ち、つまり「フォースの輝き」はずっと探している。そのためにやりたいと思ったことはできるだけ全部やるようにしているし、面白いと思った人には何が何でもコンタクトを取ろうとしている。そうやって少しずつだけど着実に世界を広げている。未だに「現実」の恐怖に怯えているけど、もしオビ=ワン・ケノービが僕の前に現れて、僕のフォースを再び覚醒してくれるなら、僕は迷わずタトゥウィーンを抜け出してオルデランに向かうだろう。